令和4年9月24日の16:00頃、私の恩師である金子美登(かねこよしのり)さんが他界致しました。享年74歳。
その前日は秋分の日であり、私は山づくりを教わっている師匠や仲間たちと夜な夜な打ち合わせをしていました。その夜は台風で静岡県西部は猛烈な勢いで雨が降っており、河川の氾濫や土砂災害など、各地に大きな被害がもたらされました。私は近くの浸水警戒地域の排水門の担当をしている為、夜中12時に水門を見に行き、2時頃まで作業をしていたのですが、帰りに我が家へ続く一本道の途中が地すべりしていたり、路肩が決壊していたりと、記録的な大雨で非日常的な状態となっておりました。次の日は朝から田んぼや周辺の見回りに出かけ、田んぼの水路に溜まってしまった土砂の掻きだしを集落の人達と一緒におこなっておりましたが、そんな最中の訃報でした。
金子美登さんは日本を代表する有機農業家であり、「日本有機農業界のカリスマ」と呼ばれ、日本内外で数多くの功績を成した方でした。日本有機農業の祖である一楽照雄氏に学び、若くして有機農業の実践者となり、50年以上にわたって有機農業を実践され、日本農業界を牽引されてこられました。集落全体での有機農業への転換を成しえ、有機の里づくりとして天皇杯受賞の立役者に。町議会議員としても長く活躍され、黄綬褒章も受賞。美登さんはまさに有機農業、そして小川町の「顔」でした。
美登さんとの出会いは私がオーストラリアから帰ってきたときのことでした。「循環」ということをテーマに、妻と1年半の渡豪生活を終えて日本に帰国し、日本の農、そして風土を学びたいと強く感じていた際、妻のお父さんが美登さんと妻の友子さんの営む霜里農場を紹介してくれ、見学会に参加しました。見学会の雰囲気、農場の様子、美登さんの言葉。その一つ一つが自分の心を動かし、最後に集落の公民館で美登さんのお話を聞き終えた後、すぐに美登さんのもとへと行き、「ここで研修させてください」と申し入れていたことを今でも強く覚えています。そこに理由はなく、純粋に突き動かされたからという出来事でした。この人に学びたい、と。
その後妻と1年間の夫婦住み込みでの研修生活が始まったのですが、この1年間は多くの仲間との出会いにも恵まれ、本当に濃密な1年間でした。私たち夫婦は当時、オーストラリアやニュージーランドで先進的な文化を学んできたばかりであり、色々なアイデアが頭の中を巡っていたのですが、そんな状況を美登さんはよく理解してくださり、コツコツと地に根差し、一歩一歩地道に実践することの大切さを、身をもって教えて下さいました。朝5:00には起床し6:00からの朝礼、そして野菜の収穫、調整、配達。配達を終えるとその日の野良仕事に出かけ、牛や鶏の世話をしたり、田んぼ仕事をしたり、畑仕事をしたり。単調な毎日の繰り返しですが、何とも彩り豊かで、充実して、喜びに満ちた毎日でした。
私たち夫婦を研修後、私の故郷へ送り出してくれたのも金子夫妻であり、今思えば美登さんと友子さんに私の故郷という地に、私たちという種を播いて頂いたようでした。我が家の長男坊を妻が身篭ったのも霜里農場での出来事で、今や家族は5人に増え、この地での生活にも大分根が生えてきたように感じます。帰郷後に、故郷で金子夫妻と共に始めたLove Farmers Conferenceは5年間開催し、毎年埼玉から多くの仲間たちが駆けつけて下さり、この地と様々なご縁を繋いでいただきました。播いた種がしっかりと発芽し育つよう、手をかけて下さったのがこのLove Farmers Conferenceだったのだと思います。
(金子美登さんの農場内での写真。牛が大好きな方でしたが、まさに牛の様に穏やかで、一歩一歩地道を確実に進む方でした。私も丑年、牛は大好きになりました。写真は多分チヒロちゃん、一番のやんちゃ娘です。)
先日我が家でも秋のお米の収穫を迎え、今年はお陰様で大変よい収穫を得ることができました。美登さんに習い、微生物豊かな土づくりを心掛けての7回目の稲作でしたが、ようやく一つの目標にしていた反当りの収量が6俵台にのり、今年はこの地に合った稲らしい姿を拝むことができました。美登さんは本当に目の澄んだ方で、亡くなる前最後にお会いした際、その透き通った瞳の美しさに驚きました。人はこの世に生きながらにして、ここまで澄んだ瞳になれるのだな、と。これも毎日の絶え間ない美登さんの純粋な努力と実践があってのことではないかと感じます。美登さんは最後まで田んぼに出られ、田んぼの見回り中に息を引き取られました。美登さんは美登さんらしい生き方を最後まで貫き通しました。背中で教える、生き方で示す。最期まで「実践の人」でした。美登さんは静かで、穏やかで、いつも世の中の先を見据えてそこから目を逸らさず、目の前のことをコツコツと実践される方でした。その好奇心、無邪気さ、これだという時の行動の速さと目の輝き。昭和を生きた活動家としては珍しく、敵を作らず、争わず、和を以て尊しとなす精神の方でした。村で生きることの難しさ、慎重さ、そして豊かさも教えて頂きました。
(たくさんの思い出。今でも私のバイブルである野菜づくりの大事典。)
数々の功績を世に残した金子美登さん。この世は諸行無常の世界。世の中は常に流れ続け、今日起きた出来事も、明日には過去のこととなる。美登さんの成した功績も、次第に過去の出来事となり、思い出となっていくのだろう。すべては常に流れの中にある。何を成すかではなく、どう生きるか。結果ではなく、何を示すか。自らの意思は天に記す光の柱となり、自らの生き方は常なる世界に記憶される。この世でおこなうこと、そしてその意志は色あせることなく、宇宙全体に蓄積されていく。各々の使命に氣づき、それを誠心誠意全うすること。その時放たれる光の輝きは様々な生命に振動を与え、その振動は波動を成して連動していく。美登さんの放った光の輝きに、本当にたくさんのことを教わりましたこと、ここに感謝の意を表して書き記させて頂きます。美登さん、本当に有難うございました。またお会いする日を楽しみにしております☆
Comments